空間を切り取るメディアとしての文章

メディアの動と静

先週末は、夫と二人で
音楽旅行に出かけていました。

梶浦由記さんのサウンドトラックライブで
ピアノ・ベース・ドラム・パーカッション
フルート・アコーディオン・イーリアンパイプス
チェロ・バイオリン・歌い手さん
のトッププレイヤーが競演する
本当に豪華なライブでした。

音の弾丸、体の中の水を震わせる振動
観客とともに音楽が満たされていく

CDやBlue-Rayでは伝わらない
生の音楽の魅力がありました。

※画像はイメージです

そこでふと思ったんです。

音楽はCDとライブでずいぶん違う。
切り取られ記録された音楽と
空間で動的に今繰り広げられる音楽

音楽と比べて
さて、文章というメディアは
果たしてどういう性質だろうか
と。

音楽が動だとするなら
文章は静のメディアなのだろうなと
思ったんですね。

私という書き手のフィルターを通じて
空間を切り取り、表現する

記録し、再生や編集が簡単な分
動的な魅力は損なわれやすい

文章のライブって
やれるならやってみたいんですが
ちょっと思いつきにくいですね(苦笑)

それでも、「動」の表現を目指して

切り取るメディアである文章には
限界があって
言葉にできないものがある。

伝えきれないものがある。

音楽を前に
あらためて「言葉にできない」
「言葉が足りない」という限界を
知りました。

それでも
限界をわかっていても
「動」を表現しようと
し続けたい
んですよね。

確かに限界はあるのだけれど
文章にも込められる魂というか
波や空気があって

文章を通じて
動を読み手の脳内に再生する

ことができたなら
それが本当に「心」の文章
なのかもしれない。

まだまだ道は遠いですが
音楽にふれて
動の感動をいかに留められるか
再生できるか

私がライターである以上
その試みにずっと
仕事を通じて挑みたいですね。

この記事を書いた人

心の文章や

心の文章や

株式会社心の文章や代表取締役 多田ゆりえ。
国際基督教大学卒業後、社会人経験を経て、県立広島大学大学院にて社会福祉学修士取得。2018年8月に起業し、翌年法人を設立。社会学の調査や論文執筆の経験とマーケティングを組み合わせた小説・脚本の執筆やインタビューライティングを得意とする。